「死とは何か」からの思考(9) 〜 親という概念
2021/6/4

【本要約】「死」とは何か 〜 まえがき&あとがき版
人は、どうしても死について考えたくない。死について考えると、不安と恐怖と心配に呑み込まれる。死を恐れるのは不適切な対応だ。死は、機械の故障と同じだ。死は、身体が壊れて動かなくなってしまうだけだ。
限界
死んだ人とは、二度と会えない。だから、悲しい。死んだ人と、会って、もっと話したかったから、悲しい。
「もっと」と言っても、ずっと、その人と話していられる訳じゃない。限界があるのだ。
お互いに、「よく話したな」という感覚になるまで話す。限界まで話す。それから、時間が経てば、また、話すことも増えるし、変わっていくかもしれない。でも、1度、限界まで話す。
親が死んでも、前より、悲しくないはずだ。存命のうちに、できる親孝行はやったし、限界まで話した。今は、実家に帰る必要性すら感じない。
命と存在
もし、このまま、会わずに親が死んだとする。
そうすると、今、俺にとって、親は存在しているのか?現実の世界では生きているし、連絡もすることができる。
しかし、もし死ぬまで会わなかったら、実際には、俺の中では存在しないことと変わらない。
その人と、もう会えないのなら、もう会わないのなら、現実の中では、死んでいないが、俺の現実の中では、存在しない。
俺の空間軸や時間軸の中に、存在するものが現実である。その軸の中に、存在しないのは、どういった存在か?
それは、もう概念である。親という概念でしかない。
親は概念、自分は機械
概念:思考の産物
「死とは何か」を思考することで、親は概念へと昇華した。
「死とは何か」の結論は、自分の死は、機械の故障である。
機械も、その個体によって寿命が異なる。人間も、人それぞれで寿命が異なる。それだけだ、「へー、機械の故障と一緒なんだ」と、自分を理解させる。
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