仕事と旅の相関についての発見
2022/5/26
体験と効率性
水泳を習うことで、効率的な泳ぎ方という思想を得た。
体験の中に効率性が加味された。
そのことをずっと考えていた。無意識の中へと違和感を放り投げていた。
様々な事象が、あるとき混ざり合って、ヒラメキとなる。アイデアとして降りてくる。
『 私の中では、体験と効率性は、分割されていた。
しかし、実際には、体験と効率性の世界は、混在していた。』
私にとって、世界が「 どのように見えていて 」、私が「 どのように認識しているか 」だけが重要である。
効率性 = 仕事
効率性とは、仕事である。
いかに効率よく作業を進めるか、そのためにiTを活用する。システム化して効率的に作業を進める。データを分析して効率的に作業まで落とし込む。プログラムを作ることに意味はない、プログラムは効率化するためのツールに過ぎない。プログラムを作る体験は、日常の一コマに過ぎない。
体験 = 旅
私にとっての体験は、旅である。旅は「 いかに効率化して観光地を回るか 」ではない。旅は、非日常を楽しむものだ。食べログもグーグルマップも使わず、スマホをポケットの中にしまいこんで、町を歩く。正解なんてないし、行き損ねた観光地があってもいい。ただ、町を、自分の興味があるほうに、なんとなく、歩く。商店街があったり、市場があったり、美味しそうなご飯屋さんや、甘味処、スーパーがあって、とりあえず、行ってみる。「 何があるかわからない 」から楽しいのだ。
テレビで見たことがある風景、ガイドブックに載ってある風景を見るために、確認するために行くのではない。既知の事実を確認するのではなく、未知の世界を既知の事実に変化させることに喜びがあるのだ。
水泳教室
「 効率性 = 仕事 」と「 体験 = 旅 」は分断されている。仕事 = 旅にはならない。体験と効率性は別々の概念であり、混じり合うことはないはずだった。
私にとって水泳とは、体験 であり、太らないための運動だった。太りたくないし、汗かきたくないから、泳いでるだけだった。しかし、上手に泳げる人がいる、とても速く泳げる人がいる。自分より上手に速く泳げる子どもがいる。私は、元来、負けず嫌いである。私も、もっと、上手に泳ぎたい。
水泳を習いに行く。
私は、わからないことをそのままにしないから、わからないことがあったら、すぐ先生に聞く。そのために、先生に習っているのだ。先生は、私の質問に答える。
「 効率的 に泳げるから 」
なんだかわからない違和感がある。この感覚は、これ以上、質問しても、わからないことだけは理解できる。言葉で説明されて、言葉の意味は理解できても、わからない。「 あ、そっか、なるほど 」とは、ならない。新しい価値観のインストールは、簡単じゃない。時間がかかるのだ。
頭の中で、何度も反芻する。
その後も、プールへ行くたび「 効率的に泳ぐ 」というワードが頭の中で反芻される。
そして、あるとき、解ける。違和感が言語化できる。
しかし、実際には、体験と効率性の世界は、混在していた。』
新しい世界
- 体験は体験自体が目的なのだから効率化することによって、イレギュラーのハプニングが起こる可能性が低くなる。「 あっ 」と驚くような体験を自ら放棄してしまうことになる。
- 逆に日常は効率的である方が望ましい。仕事が毎日パプニングはしんどい。
水泳という体験は、効率性がないはずだった。旅に効率性がないように。体験の中に効率性を発見した。「 ” 体験の世界 ” と ” 効率性の世界 ” 」は「 ” 旅 ” と ” 仕事 ” 」のように分断されていると考えていた。違った。体験の中に効率性が存在するし、効率性の中に体験も存在する。分断された世界があるのではなく、世界はグラデーションのように混じり合っていて、世界は混沌としていた。
私は、ひとつの真理に辿り着いたのかもしれない。
発想の転換
旅を仕事にするのではなく、旅しながら仕事をするのでもない。
仕事の弱点を「 おもしろいみ 」に変換するという、発想の転換である。
私は、旅の中で、バッグが盗まれても、うんこを漏らしても、強盗に襲われても、携帯をバスに忘れても、鉄砲を向けられても、飛行機に乗り遅れても、その瞬間は、もちろん焦るけど、そのすぐ後には「 また、いい話のネタができたぜ 」って、ハプニングを楽しむことができる。それと同じように、仕事のパプニングを「 また、いい話のネタができたぜ 」って思えるなら、仕事をする上で、何も問題は、なくなることになる。
「 ピンチはチャンス 」じゃあ、私は、腹落ちしない。
「 ハプニングは話のネタだ、話のおもしろいやつはモテる。その話が体験であれば、最強だ。 」
私の精神は、私の思考によって、つくられる。
私が何を考えるのかで、私の人生は決まる。
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