世界を自分中心にしか見れないというリアル
2021/10/5

感情の娯楽化
感情を娯楽として楽しむためには、自分が安全であることが知覚されなければならない。
スカイダイビング
ホラー映画鑑賞
逆に安全であれば、感情を娯楽として楽しむことができる。
危険の娯楽化
道を歩いていたら、壁の向こうから自転車が急にカーブしてきて、自転車に轢かれそうになった。
ドキッとした。ビックリした。
・「危なかったけど、轢かれてないから大丈夫、よかった」という中立的な捉え方
・「『危ない』という『恐怖』という娯楽を遊園地に行かなくても感じることができた」というポジティブな捉え方
自分がモノゴトをどう捉えて、判断するかである。
・判断を変えることは難しい。
・捉え方を変えるのは簡単だ。
自分の気持ち、心持ち次第である。モノゴトが起こる現象や、他人の言動は、変えられない。でも、自分のことは、自分のことだから、自分でどうにでもなるのだ。
世界の中心で
小さな頃、「世界は、自分を中心に回っている」と思っていた。世界の中心は自分で、「周りの環境や他人は、自分の周りを回るための存在」という認識である。
でも、自分の思い通りにならないことが増えていき、そんな感覚も薄れ、やがては忘れてしまっていた。
なんだか、わからないけど、ふと急に思い出した。
そして、その子ども心に思っていた、「世界の中心は自分である」という感覚は、忘れていただけで、正しいことがわかった。
すべてのモノゴトは、結局、自分の捉え方次第である。
自分で勉強して、自己を高めて、目的を達成するために、現状がある。環境や他人のせいではなく、自分である。
「自分が世界の中心」ということは、「世界のすべては自分のために存在している」ということは、世界のすべては、自分の問題である。自分の行動の結果、現状の世界があるのだから、その原因は、すべて自分にある。自分に責任がある。
その世界を地球とするか、日本とするか、イタリアとするか、インドとするか、東京とするか、長崎とするか、高円寺とするか、港区とするか、日見とするかである。自分で世界は決められる。どこの世界で、自分を体験させるかである。
- 自分で世界は決められる。
- どこの世界の自分を置くかで、体験が決まる。
- どこの世界でも、中心は自分であり、また、すべての出来事や体験は自分のせいである。
世界を自分中心に回すためには、自分の捉え方を変えるだけである。世界のすべては、自分に原因がある。目に映る世界を思い通りの結果にしたければ、自分の中にある原因を探ればいい。
自己中心的な発想は、世界のすべてが自己責任という、2つの矛盾しそうな思考を包括した。
- 自己中は、世界のすべての結果は、自分に原因があるという、自己原因である。
- 自己中は、自分愛を通り越しての世界愛である。
太っているのには、食事に原因がある。
飲食店ばかり目に付くのは、お腹が減っている。
カフェが目に付くのは、休憩したい。
自販機が目に付くのは、喉が渇いている。
タクシーが目に付くのは、楽に早く移動したい。
仕事があるのは、お金を稼ぎたい。
仕事をしたくないのは、お金を稼ぎたくない。
仕事が嫌なのは、仕事がつまらないと思っている。
子どもが目に付くのは、子どもが欲しい
バイクが目に付くのは、バイクに乗りたい
図書館へ行くのは、知的欲求を満たしたい
ルール違反が目に付くのは、自分もルール違反がしたい
ホテルが目に入るのは、旅がしたい
外国人が目に入るのは、旅がしたい
犬が目に入るのは、実家の犬に会いたい
私たちは自分が目にしたい世界を、自分が目にしたいように映しているに過ぎない。見たいモノしか見ていない。
金持ちになりたいから、お金の情報が見える。
見たくないモノが見えるのは、見たくないモノは見たいモノの裏返しであるからだ。
見たくないモノを反転させると、見たいモノになる。
貧乏が目に付くのは、金持ちになりたいからだ。
世界のすべては、自分というフィルターを通してしか、知覚することができない。


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