この世界は幻覚
2022/3/30
労働価値説
どんなことに自分は価値を見出すのかは、自分次第だが、他人が価値付けるのではなく、自分が価値付けることで、労働は役務ではなくなる。
世間の価値基準に従っているから、労働は苦となるのだ。自分の価値基準で物事を捉えて、それが、価値があるならば、それに、取り組むことは、世間的には労働であろうが、自分にとっては趣味となろう。
自分が、その物事に対して価値あることを見出しているという、絶対的事実の前には、すべての事象が、正当化される。誰かの価値観、世間の価値基準は、存在しない。
iTが儲かるから、iTをやるのは、世間の価値基準に囚われている。料理が儲からないから、料理をやらないのは、世間の価値基準に囚われている。料理をiT化することに価値を見出すならば、それが、私にとっての労働である。
私にとって価値があり、誰かにとって役に立つ事象、それがお金を生み出す取り組みとなる。
世間というフィルターのかかったメガネを、外すのは容易ではない。
資本家
教養とは、思考の拡張性にある。物事を多角的に捉えるためには、いろんな物事を知っているだけではなく、その物事を解釈する必要がある。自分なりの解釈で物事を捉えることこそが、思考である。世間の価値観に囚われず「 社会なんてクソ喰らえだ 」と叫ぶには「 じゃあ、お前は、どう考えて、どうするのか?」と言った問題への回答を必要となる。文句を言うだけなら、子どもなのだ。
資本主義では、資本家に搾取されるから、労働しないというのは「 社会なんてクソ喰らえだ 」と言っている。
資本家になるのは、当然としても「 何をしたらいいか?」の答えは、自分が価値あることで、他者の役に立つことである。二つのことは同時に考えられないから、自分にとっての価値があることを模索する。
すべての価値付けは、自分なのだ。それが価値観なのだ。
不安と幸福
寒いがあるから、暑いを認識できる。ずっと寒かったら、暑いがわかるはずもない。不味いがあるから、美味しいを認識できる。不味いものの後は、普通のものでも、美味しいと感じられる。
片方だけでは、存在しない。
両方が存在するから、片方を認識できる。
安心であることは、そもそも幸福である。だから、幸福の中にいて、日常化してしまえば、幸福であることがわからなくなってしまう。安心の先に幸福はない、安心は幸福を忘れている状態だから、幸福を求めても辿り着くことはない。
だから、やっぱり、不安が必要になる。不安があると、幸福を認識しやすくなる。安心が幸福であることに気付ける。私たちは、幸福に慣れてしまう生き物だから、不安によって、幸福を感じるしかないのだ。
不安をネガティブに捉えるのではなく、ポジティブの根本だと見なす。
幻覚
- 私たちは「 一つの世界に暮らしている 」と錯覚しているに過ぎない。
- 私たちは「 一つの価値観の社会に暮らしている 」と錯覚しているに過ぎない。
すべてを自分の価値観で作り直した世界が、本当の私たちの世界だ。私たちの世界は外にはあるように考えてしまうのは、錯覚であり、目に見えている世界は幻覚である。
私の価値観で構築した世界こそが、本当の私の世界だ。世界は外ではなく、内側にある。

文化
「 世界を変える、世界を変えたい 」と思っても変わらなくて「 結果として世界が変わった 」という時点から考える。結果として変わったのではなく、何をしたら、世界が変わるのかでもない。突き詰めた先にある、世界の変化があるんだ。だから、突き詰めればいい、その先の変化は自然に訪れる。考えても、世界は変えられない。でも、考えようによってのみ、世界は変わるのだ。
エジソンは、朝食という文化を作った。
岡田斗司夫は、レコーディングダイエットという文化、オンラインサロンという文化を作った。
志村けんは、最初はグーという文化を作った。

自分がやりたいことを突き詰めた結果、それが大衆に受け入れられ、文化となった。文化を作ろうとしたわけではないのだろう。でも、実際に、人々の生活は、変化し、定着した。
文化を作ることが、私がこの世界に来た意義という気がするのだ。少しだけ、世界を変えてみたい。
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