この世界は幻想だ

行動経済学

この世界は幻想だ

2021/12/12

私たちは、得たモノよりも、失ったモノに対して、意識を奪われる。

喪失の痛み

1,000円得たときより、1,000円失ったときの方が、心が痛む。心地よさと痛みでは、例えば、10,000円拾うのと、1,000円落とすのが同じくらいの感覚的な差がある。

①1,000円払って切符を買って500円のお釣りを取り忘れる。
②500円で買った切符を失くして、もう一度500円の切符を買う。
②の方がダメージが大きい。算数的には、1,000円で500円の切符を買っただけだ。経済的損失は、全く同じなのに、起きる出来事の差で、こんなにも、感覚が違う。

私たちは、資本主義の世界で、ロジカルシンキングといって、論理的に仕事をしているけれど、全然、合理的ではない生き物なのだ。

  • 「新しく恋人ができたときの喜び」と「失恋したときの悲しみ」は、どちらが、心が震えるのか?
  • 「子どもが生まれたとき」と「子どもと会えなくなったとき」は、どちらが、心に爪痕を残して引きずるのか?

私の喪失

私たちが、歳を取ると、お腹が出てくるのは、新陳代謝が悪くなっているからだ。身体の退化を意識しないで、若いときと同じ量の食事をすることで、お腹が出てくる。おじさんは、食事に気を付けて、運動することによって、何とか、誤魔化している。

「あれっ、胸筋がなくなっている」

体重とお腹を気にして集中していたら、いつの間にか、胸筋が落ちていた。

体重は減らしたい、お腹が出ているのは、みっともない、通常体型でいたい。でも、胸筋がなくなっているのは、もっと問題だ。私は、肉体の退化により得た贅肉よりも、肉体の退化により失った筋肉に対して、意識が向く。

体重を減らすよりも、筋肉を復活させることを意識し始める。失ったモノを取り戻すための努力が必要になる。

私たちの喪失

私たちは、裸で生まれてきた。私たちは、初めは何も持っていなかった。
だから、その何かは、生まれから得たモノなのだ。生まれてから得たモノなら、失うことは必然だ。

私たちは、やがて、すべてを失う。健康を失い、死を迎える、それまでの地位も名誉も富も、家族も、すべてを失う。私たちは死を恐怖する。死はすべてを失うからだ。失う恐怖の根源は、死だ。だから、私たちは失いたくないのだ。失うことに対して、極端な反応を見せるのは、そのせいだ。

初めから何も持っていなかった、失うモノは何もないはずなのだ。そして、100年後には間違いなく、すべてを失っている、生を失っている。

私たちの幻想

人生は間違いなく、プラマイゼロに収束する。人が絶対に死ぬことだけは、人が生を受けた時点で、100%の唯一の真実。つまり、あとのことは、すべて幻想に過ぎない。科学も、お金も、人も、社会も、国も、世界も、あらゆるモノは、人生の歯車に過ぎない。

どこへ行くの?
どこにも行かない。
どこにも行けない。

私は幻覚を見ながら、何も見ていない。
現実を見ているよう気がして、幻覚を見ている。
私が見ているモノは、幻覚である。

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