仕事の歴史 〜 仕事という遊び

歴史

仕事の歴史 〜 仕事という遊び

2021/12/16

狩猟

古代、私たちは、みんなで協力して、狩猟採集していた。

そのときは、所有という概念は存在しなかった。狩りに使う道具は、共同体の共有財産であった。個々人で道具を保有するほど、道具がたくさんあったわけじゃないし、そもそも、共同体に必要な数だけ、みんなで協力して、道具を作った。

みんなで作った道具だから、みんなのモノである。共同体の子どもは、みんなの子どもだから、みんなで育てた。そして、夫婦という概念もなかったに違いない。

私たち人間の男性器には、他の哺乳類にはない、カリ首がある。性器は、精子を出すために必要なのだから、カリ首は必要ない、真っ直ぐでイイはずなのだ。カリ首はなぜ必要なのか。共同体では夫婦という概念が存在せず、乱婚が当たり前であった。男も女も共同体の中で、いろんな人とセックスしていた。

女は生まれた子どもは自分の子どもに間違いない。乱婚で乱交の中では、男は、自分の子どもかどうかわからない。当然だ。しかし、男の本能として、子孫繁栄がある。子孫繁栄のためには、乱交の中でも、自分の精子を優位にしなければならない。他の男の精子を掻き出して、自分の精子を放出しなければならない。

他の男の精子を掻き出すために、カリ首は生まれた。

とても、納得性がある、合理的な理由である。カリ首は、快楽のためにあるのではない。生物学的本能から進化したに違いない。

共同体のものは、狩りに必要な道具、共同体を繁栄させる子ども、子孫を残すための男女関係、すべて共有財産だった。

農業

私たちは、食糧を安定的に確保するため、定住して農業を始めた。

農業によって、所有の概念が生まれた。「自分が働いて自分の耕した作物は自分のものである」という考えである。共同体の中で、働いていない人にも作物を共有していたら、不平不満が生まれる。

「なんであいつは働いていないのに、俺が働いてできた作物をあいつに渡さなきゃならないんだ。作物を欲しければ、働け。俺が働いてできた作物は、俺のものだ。」

農業は1人ではできない。農業をして作物を所有するためには、共同体より小さな単位のまとまりが必要となる。家族という単位が必要になる。所有という概念の登場によって、乱婚から、一夫一妻の家族へと変化していった。

しかし、いくら家族という単位であっても、農業に必要なすべての道具や、種や苗を準備することはできない。農業をする人、農業に必要な道具を作る人、種や苗を作る人などが必要となる。

分業が生まれる。

分業が生まれたら、互いのモノを交換する必要が出てくる。農家は、作物と、農業に必要な道具を交換したい。最初は物々交換していたが、分業が進むにつれ、多種多様な物が生まれてきたので、不便になっていった。

そして、交換する媒体として、お金が生まれる。

狩猟採集時代は、すべてが共同体の共有財産であったが、農業によって所有という概念が生まれた。所有は、分業を生み、貨幣を生んだ。

工業

時代は農業から工業へと変遷していき、モノが増えていった。工業化は、機械を使った大量生産から、効率性という概念を生み出した。大量生産のためには、効率化が必要だ。効率化は、分業による。

1人で車を作るには膨大な知識が必要だけど、エンジンを作る人、タイヤを作る人、フレームを作る人という風に、分業化することで、1人で車を作るよりも、知識は少なくて済む。知識が少ないほど、習熟にかかる時間は短縮される。分業によって、必要な知識が減ったことで、短い時間で習熟できようになり、効率がよくなった。

モノゴトの過程を分ける
= 分業
= 知識のコンパクト化
= 効率化

モノゴトを分けて、細かくすればするほど、分業が進み、効率化していった。

効率化は、分業を進め、世界を便利にしていった。だから、効率化は必然であった。

分業による効率化は、100点の結果だったのか?

遊び

狩猟採集時代は、みんなで協力して、獲物を狩っていた。そこには「獲物を狩って食べる」という生きるために必要な仕事の要素もあったが、獲物を狩れたり狩れなかったりするランダム性という遊びの要素が含まれていた。仕事と遊びの境目は存在しなかった。

農業時代は、定住して、安定して作物を手に入れることができるようになったが、農業は仕事となり、ランダム性という遊びの要素を失っていった。それでも、作物の種を蒔き、成長させ、収穫するという一連の変化の中に、育成ゲームのような遊びの要素を残していた。

工業化による分業は、分断であり、それは生産過程の一部でしかなく、もはや「自分が何を作っているのか」すらわからなくなっていった。分業は効率化を生み出したが、仕事から遊びの要素を完全に排除した。仕事は、お金を稼ぐための手段となった。だから、大衆は「仕事がつまらない」と言う。

金持ちは、自分で仕事に遊びの要素を作っているので「仕事が楽しい」と言う。誰かに指示され、分業された細切れの仕事は、つまらない人も多い。でも、金待ちは、指示されるのではなく、指示をして、分業を統合した仕事をしている。

車を作るだけでなく、車を販売して、修理してといった様々な過程を統括している。そこには、もちろん、遊びの要素が含まれる。車が売れるかどうかは、自分次第なのだから。

分業によって効率化して便利になったけれど、大衆から「仕事の遊びの要素を奪い、仕事を生きるための手段とした」ことは、間違いない。

未来

分業という効率化は、弊害もまた、もたらしていたのだ。

しかし、一度回り始めて歯車は止まらない。
効率化は、分業を推し進め、また、分業は効率化を推し進める。

社会は、分業化が推し進められ、大衆は、仕事への情熱を失い、ただ、お金を稼ぐためだけに、仕事をするようになった。大衆はお金の奴隷となった。お金に支配される道を歩み続けている。

分業化の進む先に未来はあるのか?

分業ではなく、統合ではないのか?

車の一部を分業で作るより、みんなで協力して、一台の車を作った方が、楽しくないか?
統合によって、遊びの要素を取り戻せるのではないか?
みんなで協力して、何かを作り上げるのに必要なのは、車の部品だけか?

「みんなで、何かを作ろう」という個人の意思や情熱が必要であり、個人の情熱が統合されると、そこには、熱気が渦巻く。

熱気はひとつの環境に統合されることで、熱量というエネルギーになる。ひとつの環境なしには、個人の情熱は、大きなエネルギーになることはない。見えない大きなエネルギーは、人の集合した状況で、初めて大きなパワーを持つようになる。

分業は足し算でしかない。

分業を統合し、ひとつの環境に、人が集合することで掛け算になる。

掛け算は、倍々ゲームである。ゲームは遊びだ。分業した遊びを排除した仕事からは何も生まれない。統合した仕事の中に遊びがあるからこそ、人は創造性を発揮できる。

掛け算から、新しい何かは生まれる。

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